伝えるということ

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出来ればやりたくないことも、なぜ人は出来るのか

縁あって今度の金曜日に早稲田大学の教壇に立つことになった。

不思議なもので、両親が教師(といっても両方体育が専攻だが)である僕は、昔から人前で喋るのが大の苦手だった。出来ることならばそんな外れくじは引きたくないと想ったものだが、不思議なことに、今でも人前で話すのは得意でも好きでもないが、気付けば小学校から大学までの授業に招いていただいてきて、そんな事実を大変ありがたいと想っている。

というのも僕自身がそうやって人から学ばせてきてもらったからである。※かといって今の自分が学んでもらえるような話が出来ているかは別だが・・・

「これってやばくない?」「あれいいよねー!」と仲間から言われても全然関心を持てなかったことも、専門家の方の話を聞いて興味が沸いた事もあれば、難しい話を聞いても全く理解できなかったことが、同僚に聴いたらすんなり降りてくることもある。

ようは人間関係と、当事者意識。このセカイはその距離と好奇心で決まる。

そこから世界を広げるも閉じるも自分次第。・・・だから人生は面白い。

かといってそれが得意じゃない僕みたいな人間もいる。いくら勉強しても敵わないもの。かといって頭がいいからと言って人に伝わるわけではない。僕みたいにバカだからこそ、人に響かせることが出来ることもある。それでもやらなければなかなか広がらないし、そもそも伝えたいことが伝えられないことの悔しさといったらない。出来ないけどやりたくなる。そもそも人ってそんなもんなんじゃないだろうか。

依頼を受けるテーマ

主にいつも呼ばれるテーマは、このブログでも書いている通り簡単に分けると「日本の生き辛さ」「世界で起きている他人事じゃすまないこと」「セカイの広げ方」が特に共通している事柄だろう。

海外や夜の街を回っていた分、こういうテーマで呼んで頂き、広く伝えさせてもらえるのは幸運なことだと思う。それもそのはず、僕が講演している内容は人々の声の拡声器。夜回りのセカイも、紛争や差別で劣悪な環境に追い込まれている人々も声を揃えてこういう。

「こういう現状の人生があると言うことを、周りの人たちに伝えて下さい」

船でも陸でもそうだが、伝える以上、その分以上に個人的に勉強してから挑む。情報は武器。噂やイメージだけでは下手に暴走して逆効果の凶器になるおそれがあるからだ。だからいつも内容が重ければ重いほどナーバスになる。けど、その分の反響もあるから続けられるのはその場にいてくれた方々のお陰様だ。

その分そのままのスタイルで何も準備をせず、話せる人は尊敬する。その人自身がいれば成り立つこと。そこを目指して日々精進したい。僕の周りにはそういう人が少なくないから常に刺激的なんもんである。少なくともやろうと思ったときにそれが出来る場所が多くある。だから言い訳がきかないというプレッシャーもあるが・・・。

いつも伝える大事にしていることは、「正解不正解はない」ということと、「答を求めることほどの愚問はない」ということだろうか。

少なくとも冒頭の返答があるとすれば、人は得た物を放出しない限り、ずっとモヤモヤするものだけが貯まってその経験を生かせないと言うことがある。僕が出会ってきた大事な物事は、全部じゃないにしてもなるべく誰かに響かせたい。「これを知れてよかった」「あのとき知らなければと、今想うとゾッとすること」なんて山ほど有る。僕がそうだったように、周りの大事な人ら含めてそれを伝えられる人になれたらいいな。

「人生は順繰りだから」

これもまた尊敬する先輩方から教わってきたことだが、「人生は順繰りだから」上も下もなくお互い様がかえってくるもの。なんて素敵な響き。全ては良くも悪くも、叩いた力の分だけ、物事は自分に返ってくる。それが運なのか、お金なのか、愛なのか、学びなのか、はたまた絶望なのか。

クソみたいなことが継承される腐った社会の中で、自分はそうではない気持ちよくなるものを繋げていきたいから、そういう道を選んでいきたい。やがてそれが自分が見ている目の前のセカイ自体になるんだから。

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