上げよリテラシー

歌舞伎町ロックカフェLOFT二階極上爆音ルーム「ロック道場」にて好きな曲を入れまくる。

日々情報が飛び交う僕らの日常。今自分たちの軸になっている無意識に信じているものはなんなのか。

北朝鮮ミサイル危機、ビットコイン長者、ハンセン病快復者、ワイドショーのスキャンダル、ネットワークビジネス、元オウム信者、慈善団体の真相、ヘイトスピーチ。

僕らの周りをいつも渦巻く噂やメディアでのイメージは、時として誰かに対する偏見や差別に直結する。

そもそもこの国が持つ常識や価値観の中で、誇れない日本の文化として上げられるのは情報を読み解く力である「メディアリテラシー」の低さではないだろうか。

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メディアリテラシー

この言葉と出会ったのは初めて海に出た洋上講座でのこと。オウム真理教の素顔を撮ったドキュメンタリー映画監督であり作家の森達也さんの企画に出向いたときだった。

森さんは「モンスターとは別の人間らしいオウム」を撮ってメディアから乾されてしまったが、そのドキュメンタリー映画は世界で賞賛された。日本では上映することもままならなかった映画がだ。この時点で世界の目と日本の目の違いに違和感を覚えた。

そのときはっきり気付いたのが、その人の常識をかたどる三つの価値観である「教育(学校)」「メディア(テレビ・新聞・雑誌)」「家庭(家族の育て方)」のレベルの低さにより、この国のマジョリティは構成されていると言うこと。

権力者側による情報操作からのイメージ植えつける手法を「プロパガンダ」というが、まさにここでは都合のいいように人を動かすには容易い仕組みが無意識のうちにすり込まれている右へならえ。その列から違和感を感じた者はなぜか出る杭として排除され、不登校か引きこもり、もしくは変わり者のレッテルを貼られてなかなか相手にしてもらえなくなる。まるで個性を削ぐかのような風潮の中で、純粋でストレートな人間たちはそうやって押し潰されていく。

これぞ「世間」という冷たく分厚いどうすることも出来ない社会の壁。

現在では年老いた方ですら、わからないことが有ればネットに頼る始末。考える頭など、その狭く追いやられた世界では通用しない。

ネットの情報が判断基準という幻想

「諦めることが大人になることなら、そんなものになりたくない」。志有る若者ほどよく言う言葉。けどそれは一つの失望であると同時に、物事を知らないことで自分の中に押し込められる悲劇のはじまりでもある。この国でも諦めずにやりたいことをやっている大人は沢山いるからだ。

世の中には様々なことや人が溢れている。だからこそ人はわからないもの、知りたいものにはちあったときに、今や片手で済んでしまうようになったネットで調べてみる。けどこれが落とし穴で、当たり前だがネットには書き手の主観が入る。一呼吸置いて考えてみればわかることなのだが、その人の印象がすべてかのようにかかれている情報だからこそあてにはならない。特に2ちゃんなどは、どうしたらここまでねじ曲がるのかが理解できないほどだ。マジで、これ誰得だよ?と言いたくなるほどこちらも気分が悪くなる。にもかかわらず、それを鵜呑みにしてしまう人がいる。けどそれは現代日本にとって仕方ないことだとも言える。だって知らないんだから。学校もテレビも教えてくれない。けど一部の独裁国家を除きそれは大多数の海外では違う。中では日本でもそうだが、ジャーナリズムも教育もはまだまだ死んではない。

ネットの情報とは、あくまで一方向からの見方であるということを忘れないでほしい。メディアリテラシーの本にも書いてあったが、世の中は多面的で多重的で多層的である。この世にひとつの真実なんてものはなく、強いて言えば人の数だけある。ただ、それは答えではない。

これは勿論日本だけではないが、特にコミュニケーションが苦手で多様性に繋がる国境のないこの地では、あまりにも異物に対しての許容範囲がなさ過ぎる事例はたくさんある。外国人、宗教、食べ物、タトゥーやナショナリズムなどがそれらに入るだろう。それも仕方ない。命からがら亡命してきた難民の受け入れだって、海外の数万人規模に対して年間で30人にも満たない現実があり、またそれもあまり知られていない。

以上のことからマイノリティが生きて行くにはあまりにも生き辛い国。これがいつしかここでは当たり前になってきた。そんなのが嫌だからとこれまで僕もいろんな企画をしてきたが、最近もある人に引き寄せられるように出会ったのである。

カフェ会での出会い

出会いの一つの場として「カフェ会」というものがある。

これは「こくちーず」や「こりゅぱ」というネットの掲示板で容易に観ることが出来、自分が興味関心のあるジャンルのお茶会に参加し、コミュニティを広げられる社交場だ。自宅と会社、もしくは学校のつながり以外のサードプレイスへのニーズで、それぞれの人生や新たなるきっかけを求める出会いの場として知られている。

大阪に来たての時、見聞を広げるために一度心斎橋のカフェ会に参加したが、コワモテの20-40代までの男性ばかりでそれがまた非常に楽しかった。これもまた偏見を壊す作業の一つだが、先日時間が空いたのでふらっと立ち寄ったカフェ会がまたおもしろかった。それぞれのコミュニケーションや価値観がもろに問われるからだ。

で、昨日訪れたカフェ会の掲示板にはタイトルしか書いておらず、他にはタグ付けされたものには「夢」「仲間」「お金」「健康」「勉強」という言葉と、「自分がやりたいということは諦めなければ出来るんです」ということしか書いてないいかにも怪しい呼び込み文句だったので、迷わず淀川橋まで歩いた。

すると、実はこの会は主催者にとって初めてのカフェ会だったらしい。そこに来たのが僕一人(笑)。初対面の僕らは日本の常識がいかに間違っているかという話に花を咲かせてあっという間に一時間、いつのまにか普段話さないことまで語っていた。

主催者曰く、自分も理想論などを話したときに「そんなの無理だ」など、周りから意見を否定されて悲しく思った経験と悔しさを元に、こういう会を開催してみようと想ったそうなのだ。それは相当な勇気である。実際に自分のような得体の知れない海賊が来る可能性もあるのだから。そして素直に今日来て良かったと伝えると、主催者は不意に泣き出してしまった。「良かった。自分が動くことで、誰かにそんな風に想ってもらいたくてやったから、こちらこそうれしいです」と。なんて悲しい国だろう。こんなことくらいで嬉しくてハグが出来るのだ。

何を信じるか

じゃあこの情報が命とも言うべき時代の中で、何を頼りに信じて選択していくのか。

こればかりは薦めたいことはここでも出来るが、何かを具体的に提示することは難しい。というかそんなことしたらただただ偏るだけで、ご自身で見比べてほしいと想うのだ。

活動家の雨宮処凜さんが最初に心を動かされたのは右翼の街宣。俳優であり国会議員の山本太郎さんが動き始めたのは311後の高円寺脱原発デモということで、入り口によって全く違う方向性をたどり始めるが、結局はそれをきっかけに様々なアンテナは出来ていつの間にか自分の意識や考えもまとまってくる。

僕の場合はやはり直接聞いて出会った洋上ゲスト、水先案内人の方々からの影響が大きい。

そこから更に自分の知りたいことは派生していき、またどこかで誰かと繋がる。ネットの情報では得られない、もしくは乗せられないような世界の実態の一部に出くわすことだって有る。そのたびにいかに僕らが情報に振り回されているかと言うことが怖くなる。もはや目の前の人としっかりコミュニケーションがとれなくなることだって少なくない時代で、あなたは何を信じ、何を選んで生きていますか?

世界をその目で見てきてるキョウダイの報告@京都。僕にとって何よりもの情報と視点だ。

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