本当の仲間について

京都に来てくれた沖縄の兄妹分。大事な人らと大事な場所を巡れた悦び半端なし。

実にネットに載せる暇もないほどめまぐるしい日が続く。京都に越してきて半年、本当に動きすぎて松葉杖になる。ここに来て「ちょっと立ち止まれ」と言わんばかりに天からのお告げなのかも知れないと想うほど、数えれば実に12箇所にも及ぶKANSAIの居場所を渡り歩いてきた。

色んな人生を越えながらも自然と繋がりあっていくのは「わかってる人」。じゃあそれっていったい何なのか。

ちょうどそんな話をするためもあり、今日も若者から「相談がある」と言うことで休日梅田の行きつけのカフェに出向いた。

スポンサーサイト

本当の仲間ってなんだろう

人の悩みとは常に人が絡んでいる。

「世界を知りたい」と集まってきた若者の中で、一人の子がぽろっとこぼしてくれた身近な悩み。

あれを知りたい、これはこうしたいというのは簡単だが、時に人は無意識に人を傷つけてしまう。すると他の誰かはいつの間にかやり場のない憤りや違和感を持ち続けることになる。この国ではなかなか本音で話せる場所に慣れてない人は年齢限らず少なくない。今回のお悩みも、ある女の子の気付きから始まった。

周りの友達が言ってることとやってることが違い、口ばかりですごくモヤモヤするという。

仲がいいはずの子のことがわからなくなった。勇気を出して本音で指摘したら嫌われるんじゃないか。届かないのではないか。自分がそこまでしなかったとしてもまた必ず同じようなことはこの先起きるだろう。逆に人との関係が深くならないから楽という人も多いなど、まったく現代日本らしい悩みだった。

彼女が眼を濡らしながらこだわっていたのは、多分本当の友達とは何かということなのではないかと感じた。

特に大事な居場所という環境が出来た人にとってこれは共通のテーマかも知れない。人生いろいろ渡り歩いてきてようやくわくわく出来る場所を見つけた。けど、そこに自分のことを真剣に考えて怒ってくれる人や、自分の非を認めてかっこ悪いところを見せれてその人の胸に飛び込めたり、自分の個性を活かして次のステージに進める人ばかりかと言われたらそれ相応の道のりがあるだろう。ましてや人が多ければ多いほど、その空間の奥行きが何重にも増していき、もはやそれぞれの常識なんかは通じない。そもそもそんな濃い関係自体を求めていない人もいるだろうが、だからこそしっかり向き合う必要はあるのだ。

誰しも陰口などグチグチ叩きたくないし、そこまでモヤモヤがたまる人なら、例え今嫌いと思っていたとしても、「大事だからこそ」生まれる愛にも似た感情。人は思い通りには動いてくれない。その分ふとしたときに涙が出るほど嬉しかったり、目の前が真っ暗になるほど裏切られる(ように感じること)こともある。そもそもコミュニケーションが手元から始まるSNS世代には、ぶつかり合ってきた経験がない人がほとんどだ。そんな面倒くさいことするくらいなら自分でなかったことにする。それでも割り切れないほど優しい子の元へ、皮肉にも「悩み」は留まり続ける。

この手の相談にのっているとき、僕はいつも目の前の子を悩ませる相手がうらやましくなる。こんなに想ってもらえてお互い「実は」幸せだなぁと。僕がアドバイスするまでもなく、その子はハッキリと二人で時間をつくってみようと想うと決めたそうだ。いいなぁ。こんな感情なつかしいくらいだ。想えば僕の周りにいる大事な仲間たちも、しっかり喧嘩してぶつかってくれた人が多い。全てはここからだな。

それにしても人を大事に出来る知りたがりの人たちとの時間とは、実にあっという間にすぎる4時間だった。

セカイのことが知りたくてたまらない勉強熱心で熱いものを持つ大阪ボラスタの二人。

全ては知らないだけの話

カラスマ大学初参戦。学長マキさんの話面白かったぁ@京都国際映画祭

大切な場所だから周りも気になって当然。僕らはまだまだ知らないことばかりのセカイに、まだまだ知らない人に埋もれて生きている。じゃあそもそも自分のことは知っているんだろうか。

以前対談させてもらったキレモノ社会学者の方はこんなことを言っていた。「自分探しなんてしても仕方ない。だったらセカイ探しをしろ」と。自分は自分で気付くしかないが、セカイは知らなければ、何で自分がここにいるのか、これから自分が何処にいくのかわからない。

そもそも自分の悩みの種だったあの人が、実は自分のためにあんな事やこんな事を伝えようとして起こしていたすれ違いなら一塩だ。それでも今日も人は不器用ながらも誤解し合って取り越し苦労をしている。

そんなことを想いながら、人が集まる場所には大概それ以上の人と出会える。

だから学びは辞められない。怖いくらい今自分が必要としている人と引き寄せ会える。

おそらくそれまでそのことに興味がなかったときはストコーマ(無意識に見えないモノ)が閉じていただけで、いつでもどこか近くにあるものなんだろう。

妹分のフォトジャーナリストに会うため、ゆかりある仲間たちと最前列でお出迎え@世界報道写真展in立命館大

愛とは

地球一周目で出会ったソウルメイトにやってもらった自分の場所がわかるマナカード

そもそも大事な人というのは何も恋人やパートナーだけではない。

世間や時代なんて関係ない。ただ目の前の人と真剣にぶつかり合って、何でも言える中を増やせたらどんなに素敵か。セカイを変えることは出来なくても、自分を変えることは出来て、そこからものの見方が変われば、結果目の前の世界は自分によって変えられる。

関西に来てからようやくちょくちょく会えるようになったソウルメイトが、これまた今の自分に必要な情報ばかりを持ってきてくれた。今までの自分とこれからの自分。これらを繋ぐ今の自分が行きたい場所は何処なのかを魅惑のカードでぴたりと当てて、やさしい目標を与えてくれた。これまで欲張りすぎた僕には断捨離する絶好の機会。全ては繋がっているから理解できる偶発的な日常の必然の数々。

いつか尊敬する兄貴分のクリエイター社長が言っていた。「自分の手で届く範囲(せめて両手で数えられる程度の関係)以上の人をどうこうしようとは想わない」。数々の場所へ出向き、多くの出会いを繰り返した人が口々に語る「まずは身の回りから」とはこういう事なんだろう。そんな輪が少しづつでも増えていけば、それらの点は線で繋がりようやく円を描いていく。

早かれ遅かれ、これからのAI時代に問われる「人として」は、そんな身近の人間関係からくる「わかってる人」。

これをセカイは愛と呼ぶんだろう。

必然と出会っていった京都の同志と集まる憧れの天一総本店。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする