生きた心地のするしない

「心」という字をイメージして造られた毘沙門堂の庭園「晩翠園」

これが叶うなら何でもします、許してくれたら言うこと聞く、それだけは一生のお願い。

結局僕らはいつでも忘れてしまう大事なこと。

いつかの「人生終わった」「もう消えたい」と想った夜を越えてここにいるはずなのに、災難はいつもたたみかけてはあのとき感動したり痛感した感覚を忘れさせる魔の力。

それだけじゃなくても地球規模にも紛争、環境、差別、エネルギー、貧困、格差もなくなるどころか増える一方だ。

僕らはいつになったらようやく学ぶのだろう。

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「神様とのおしゃべり」

そんなときに仲間から面白い本を教えてもらった。内容は駄目主人公の元に現れた神様と、日常を通しての自分の行いから見る「セカイは全て自分の望んだとおりに出来ている」ということに気付いていく話。存在自体は知っていたが、実に筋の通った話をする本だ。

想えば自分もそうかも知れない。というかそうだ。良くも悪くも想っていたとおりに目の前の日常が出来上がっている。だってセカイは自分の見たい者と見たくないものしか見えないようになっている。自分の脳がそうさせるから、それ以外が映らないのだ。そう考えれば世の中よくできている。本当に望まないとかたちにならないが、逆を言えば本当に強く願って行動すれば全てが叶う。すると今自分が悩んでいることなどは、「本当に変えたい毎日なのか」という問いすら出てくる。

僕らの船にも様々な想いで世界を回ろうと、期待と不安の面持ちの人々が集まってくる。ただ、自分は本当に変わろうとする先の自分を望んでいるのだろうか。

人生を見失う人らと今を考える

航海を共にした教え子が人生に迷い、全てを捨てようとしていた。

人生、生きていれば色々あるからこそ、BADな方向しか見えなくなってしまうとなかなか元通りにはなってくれない。思考も体も、そちら側に引っ張られるからだ。それにしても、人生はつくづく酷なものだ。一生懸命生きる人の上にばかり試練が訪れる。次から次へと、向き合えば向き合うほどそこに落ちていく泥沼が雪崩れ込む。

けど、一緒にそんなことを共有するから何とか今日も生きられる。

僕自身もそうだ。いつまでたっても余裕なんて創れずにもがき続けている。だからこそ、心底戦う仲間の姿は共に今と戦える力を感じ、非常に助かっている。

一見きらびやかに見えるSNS上では決してみることの出来ないリアルな毎日がここにはある。

出来れば今、消えて無くなれたらどんなに楽に今から解放されるだろう・・・

けどそんなことは多分今だけで、良くなるイメージの自分が想像できないところにある。出口のないトンネルで、なす術無く閉じこもる。のではなく、術を使う気力も持たずにうずくまる。「神様とのおしゃべり」にも記されていたが、人はイメージできないものに関してはなかなかそこに到達することが出来ないのなら、まずはどんな状況を今の自分が望んでいるのかを知る必要がある。

それにもってこいなのが、一緒に今を戦っている仲間との時間なのだ。語りまくって互いを再認識する気付き。一人じゃ出来ないものも何人かと見せ合えば案外立ち向かうことさえわくわくしてくるし、何よりも今を味わえるものだ。

生きてるだけでHAPPYという価値観

六星占術だろうと大殺界だろうと俺が木星人で君が火星人だろうと、人生嫌な事なんてのはごまんと起こる。どんなについてない怪我や詐欺・借金、失恋、仲間の死、もしくはなかなか言えないこともあるだろう。それだけ色んなところに落とし穴はある。

けど、今生きているのであれば、立て直せる。例えば足が無くなったり、五感のどこかを失っても充分に出来るだろう。そもそも僕らは当たり前の感謝を忘れすぎる。結局失わないうちはわかっているつもりばかりだけど。。。

松葉杖をつくようになった程度でこのザマだ。未払いもそう。たまたま元気を出したくて、GEOを訪れて手に取った映画「ソラニン」。全ては必然であるからして、このタイミングで見るものは全て見方が直で来るので余計印象的だった。これからの人生の再出発が楽しみだった若者がある日命を失ってしまう。戸惑う周りの人間。そこでも出てきた「音楽はセカイを変えられる」。まるでいきつけのBARの店長みたいなことを言う。少なくともここで大事なのは「変えなきゃいけないセカイ」があること。そんなのがある限り、課題は山積みだ。けど、そのほとんどが自分のこと。セカイはいつだって自分と共にある。

ふと横を見れば毎日怒られている怖いかみさんの寝顔。俺はあらゆる人のお陰様で何とかまだ生かされてる。歳だからとかおっさんくさいことを言うようになったが、そんなんも結局ただの言い訳。命があれば何でも出来る。

だからお金よりも何よりも「大事な人たち」や「これからもやりたいこと」だけは失いたくないと再確認できた。

行き付けのBAR「BASE」の一周年に京都で出来た新しい仲間たちと駆け付け、そしてまた繋がる

あの時感じた「生きた心地」を取り戻すために

自分が何処にいるかわからなくなって迷子になったときは、自分のことを好きでいてくれる仲間や友人に聴いてみるといい。少なくとも僕はいくらでも思い出させることが出来るよ。

誰だって見失うもので、しんどいこともめんどいことも、わからなくなるときもある。けど、誰かから必要されていることを思い出せば、久しぶりの仲間たちの笑顔や元通りの自分どころかレベルアップした自分にも会えるだろう。最近信頼する身内みたいな奴が戸惑いながらも前に進むことを決めたらしく、激励を送った。

僕自身もまさにそんな正念場。ここでまた生きてあそこに帰ろうぜ。

東海から会いに来てくれた生徒たちは、今では立派に先生として活躍している@嵐山

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