世界の一部をガツンと伝えるとき

いつも不安になることがある。

「世界を知りたい」と言う若者たちに、断片的な異国の映像を見せるとき。

彼ら彼女らを疑っている訳じゃないが、これを見せて果たして大丈夫だろうかと。

ショッキングな映像だけでは伝えたいことがしっかり伝わらないどころか、全く別の方向の解釈へ行く可能性もあるからだ。

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勉強会に集う若者たち

毎回ゲストや自分らで隔週行っているセカイを知るための大阪勉強会

人が真剣に何かに向き合う眼が大好き。そこにはどこかあたたかくなった明日が見える。

「世界が知りたい」若者が集う我らが事務所。とはいうもののそこに答があるわけでもなければ、善悪が存在するわけでもないこの世界情勢。日本の教育やメディアがしっかりとした現在を伝えないのであれば、それを見聞きした者が伝える義務があるとさえ思ってしまう今日この頃。

中でも異国の歴史的な映像は、時に目も心も伏せたくなるような映像はたくさんある。もちろんそれは断片だけで、全てがそうではないから、これも一種の偏見を生んでしまう行為なのかも知れないが、しっかり伝えればそれがその人の新たな価値にもなる。

ただ、今話題のDAYS JAPANの閉刊にも関連するが、本当にリアルを知ることが出来る媒体が少なすぎる。情報を読み解く力とされるメディアリテラシーの話にも通じるが、どこから情報を取ったらいいかもわからなくなって当然だろう。そしてそれはどんな人が書いたものなのかも重要。僕がそれを自然と判断できるようになったのはこれまでの直接的な出会いが大きい。実際その地に行って見聞きしてきた人との混じりっけのない交流から得られるインプット。

だがそもそもあらゆる出来事に対する興味関心がなければ、そこにすらたどり着けない。何かのご縁で出会ったとしてもこれがなければ発展することはない。そう。最も大切なのは「なんでこんなことになってんだ!?」という好奇心に他ならない。

だからこそ、伝える側の器が問われる。

ショックだけでは伝わらない

別にこちらは衝撃映像を見せてドギマギしてほしいわけではない。大事なのは当事者としての自覚と距離。自分に関係有るものでいて、スクリーンの中の話や歴史の教科書のような対岸の火事ではなかなか響かない。

そして日本ではタブー視されているようなテレビじゃカットされるかして触れることのないモザイク系の映像。ほとんどの人がこれに対する免疫がないため衝撃的な映像や事実を知っただけでそっちのイメージが強くまとわりついてしまい、肝心なその物事自体の理解が欠けてしまうのだ。そして人の興味や価値観ははかることが出来ないから、受け取り方も千差万別。

それによって受け手の日常が変わってしまうから、伝える側も情報や個人に対する責任が生まれるのでいい加減なことは言えない。毎日着ている物、食べてるもの、選ぶ情報、人、心、店、判断などなど。それでも僕らの活動とはそうやって一人ひとりと向き合っていくしかないと思う。そこで同受け止めて、何を選ぶのか。もしくは受け止めきれなくても、伝わるように伝えられていたのかなんて。

変化

そうまでしてこのセカイは伝える価値があるもので溢れてる。知らないことが多すぎるのは仕方ないほど広くて深いセカイ。

昨日までレンズを向けられて称えられていた紅葉が、誰にも気付かれないうちに地面に落ちて無意識のうちに踏まれてる。その過程なんか色付くまで気付かなかったくせに。目で見えるものしか求めぬ人間。そうやって食物連鎖のサイクルをつくっている見えない成長と繰り返される変化。目に見える変化に必死で追いつこうとしている人間と、変わらぬ季節の風物詩。

だからこそ望める希望的な変化と、何世紀も変わらない大切なもの。

知られざるこのセカイの断片知ったら何が出来る?

目の前にいるはずなのに素通りされていく迷子たち、何ともしてくれない海外の人々に中指立てることなく命を祈る難民キャンプの人々、闇のセカイで値段をつけられる人権無き絶望の人、未だに差別に怯える少数派、大きな仕組みに流れ流れて人の上に降り続く砲弾の数々。大きなうねりは止められないとすらお手上げになる大災難。

それでもきっと出来るよ。このセカイをつくっているのは今生きている僕ら自身。そして何を選ぶかを決めているのもまた僕らでしかない。

たかだか、まだまだ少しセカイの受け止め方と変え方を知らないだけなんだから。

京の街を染めていく偉大なるタイヨウ。高台寺付近で京都の同志と。

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