当たり前のない世の中

この間なぜか入れずここまで投稿が出来なかったけど元気でやってます(笑)というかむしろどのみちパツパツでやりたいことばかりやってたからもう追いつけないな。とにかく最近の言いたいことと言うより、前下記途中だったモノからまとめていこうかな。いやぁー、ただいまっ!

心斎橋で仲間が主催した「平成最後令和元日オールナイトDJイベント」。

何をやってもうまくいかない人がいる。いつまでたっても自分に自信がない人もいる。それらは全て自分が選んでいることと気付かずに、負の波動とスパイラルで周りさえも巻き込んでしまう痛いこと。それでも人は時に間違える。当然なことや絶対などあり得ないが当然これは絶対だ。なんて想ったり。

例えばそんな人にはこういう日頃の行いの共通点がある。「連絡のレスポンスが遅い」「時間を守らずしょっちゅう遅刻・ドタキャン有り」「約束を守らない」「行ってることとやってることが違う」「学んだことをすぐ実行しようとしない」「普段の食生活から体調管理が出来ていない」。そら信頼損ねるしあかんわ。

そんなとき、その教訓を元にどうやって学び、改善していくのかが大事になる。物事の本質に気付かず、わかるとできるの違いを理解していない人が目につく。

結局回り回ってまた返ってくるなら、いつ気付いて改めるか、それらは早いほうが失う者を多くせずに済むはずなのに。

仲間とフラッシュモブを繰り広げた聖地、平安神宮。

スポンサーサイト

不幸を呼び寄せる人の逆引き寄せ

なんや言うてもいいこと悪いこと全ては人の出会いと関係性によるものが大きく左右する。

自分はどういうところで人と出会い、人間関係を深めて繋がることが出来ているのかどうか。

先日仲間に薦めてもらった世界的な名著「ベロニカは死ぬことにした」。

ただの自暴自棄になった狂気的な作品と思いきや、これがまた人生の今回の深い部分を実にしっかり考えてつくられている作品だった。

洋画・邦画共に映画化もされている「アルケミスト」も書いたブラジル人旅作家による名作。

用はするに何もかもに絶望して死のうとしていた女の子が、幽閉された精神病院での出会いで様々なことに気付いていく話。人生はその人に必要なときにそのタイミングで気付きのチャンスをくれる。苦しみも悦びも全て意味のあることと受け入れたら自然と今の自分が向き合わなければならないモノ、気付かなければ罰が当たる幸せなどが、実は今この毎日に散りばめられている。

人権活動家の講演からの学び

そんなきづきを僕に新たに与えてくれたのが、前々から共通の友人も多い「全日本おばちゃん党」谷口真由美さんの人権セミナーに行ってきた時のことだ。遅延によりギリギリに到着した東本願寺横の会場には、ほぼご年配の方々で席が埋められている中で、谷口さんは一本のマイクにもの凄い勢いで喋っていた。最初は何処まで客席に響いているかはわからなかったが徐々に会場のボルテージを上げていく様は圧巻だった。この国の在り方、憲法の意味、普段の私たちがついしてしまっていること等々、ズバズバここまで言えるのは大阪らしい愛と活気に溢れているからかも知れない。

久々に圧倒されたすさまじい講義だった。最後僕の目の前を通り過ぎていくとき、いつもの自分ならこちらから話しかけに行くところ「ありがとうございました!」と頭を下げることしかできなかったが、そんなぼくに谷口さんはにこっと笑ってくれた。人間がでかい。

「いつ、誰が、何のためにつくってきたものに、あなたは納得しているのか」。常識に振り回されないために必要な心構えだと痛感させてもらった。

仲間のPV撮影を手伝わせてもらった京都の山奥で自然のスモーク。カメラを回すのは国際派若手映画監督。

意識や格を上げなければ人には伝わらない。

結局周りの人が何を見ているかって目の前にいる自分自身のこと。

どんな学校にいっててどんな役職についてようが、お金を持ってようが関係ない。ずばり「今をどれだけ楽しめているか」どうか。勿論結果を求められることもあるだろうが僕からしてみたら「何処を目指して今何をしているのか」のほうがやっぱり大事なんじゃないかと思う。

結局は「今の自分」なのだ。

僕も含めて近くの大事な相手に対して思いが強い分、自分がせっかく伝えているのに対して聞く耳を持たず、どんどん向きになって話しが徹底して平行線になってしますこと。最近こういう事がよくある。それはもちろん前提として互いを信頼しているから出来るある種のいい喧嘩。けどそれもしっかり互いの思いを理解しないと悪い仲違いになってしまう。そしてこれらも日頃の行いが専攻して入ってくるため、普段出来てない人の発言力は弱い。だからこそ、こういうところで互いに気付かせ会えるんだろうなと想う。そんな自分のことより仲間想いの奴らに囲まれて、学びと愛の宝庫である。そんな大事な人らとこそ、共に気付きながら己を磨いて、その荒ぶる個々のフォースを覚醒したいのだ。

年パスが切れる直前に行ったホグズミード村

建仁寺の坐禅で学んだこと@カラスマ大学

そんなときにカラスマ大学きっかけで出逢ったイマジネーションを膨らませる坐禅。

兎に角ここのお坊さんのお話しが面白すぎてかなり学ばせてもらった。

「坐禅は無になることではない」「微妙に左右に揺れながら中心を見つけるものだから動いてはいけないというものではない」「目を閉じてから音を観て(観音)、香りを聴く(芳香)」「一点に留まることで逆に体中で自由に動けるようになる」「自分の周りに有るバリアを少しづつ解放していく」「そこにいるモノとして一体化する」。

出来れば毎回メモを取りたいくらいの学びの連続だが、いかんせん荷物は縁側のカラダ一貫で時計もフードも禁止の坐禅。あまりの気付きに今では仲間とここに通っている。それどころか今度ここで坐禅を教えてくださっているお坊さんにお薦めの本を聴いたり、ついには飲みに行くところまで行き着いた。

奈良の聖徳太子が生まれたお寺の天井には全国から描かれた花束が敷き詰められていた。

そういえばこの前旅した世界遺産「金峯山寺」の下の喫煙所でバッタリであった和尚さんも言っていた宇宙と波動の話。本当に最近この話をよく聴く。何が本当で嘘でなんてない。

どれを信じて選んで実行するかもその人次第。

ただ、本当はもっと難しくなんかなくて、もっと大事なモノはすぐ近くにあるって事なんだと想う。それでも人は過ちを犯すから、それで終わりじゃなくて、今までそこにあったモノに気付くと言うことが大事なんじゃないかな。

ぼくらは、自分がしたまんま・望んだまんまが反映されるこの世界で、何処まで本質をとらえられるのか。今日も大好きな仲間たちが喧嘩している。心は痛いが疑わない。本気で生きてるもん同士、すぐに分かち合えたら苦労はしない。それでも僕らはそんな人々を見ながら、触れながら、個々で気付いていくしかないということだけは確かだろうから。

何処に行こうが、誰と会おうが、自分のしたかったその環境が手に入ったってそこで気付いて身にしなければ結局は何にもならない。

誰もがいつどうなってもおかしくない、当たり前なんてない世の中だから。

共に乗り越えていこう。

最近お気に入りの時間、建仁寺・両足院での朝坐禅教室

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする