まだまだ知らないだけ

ガキの頃は食わず嫌いだった数の子も明太子も生姜やパクチーだって、30過ぎてから大好物に変わった。これっていつの間にかその本質も知らずにカテゴライズして、勝手に気付きからの成長のおかげで手に入れることの出来た幸せのかたち。実にこれまで勿体なかったなと気付く。

変わりに大好きだった牛乳もカップラーメンも寝る前の肉も炭水化物もやめたけど。ホンマに世の中知らないことは怖いこと。じゃあ何でこの国は他の国はどん引きするほどになってるのかってこと。

三条から京都駅まで鴨川沿いを歩いてみる一人っきりの30分。

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そのタイミングを掴むか聞き流して捨てるのか

そもそも「知らないこと」に対して、僕らはどれだけ関心を持っているだろうか。

まさに人それぞれだと思う。それでもその人の耳に入ってくるモノがあるとすれば、少なくとも自分にとって必要なことだから自分の耳まで辿り着いてきたことになる。

だから巡り会うその会話や新たな出会い。それに対して、しっかりと受け止め切れていないこともしばしばあると思う。けど、それらの中のいくつかはまた自分の所まで舞い戻ってくる。そのときはまた同じ知識や反応しかできなかったら、人はいつ学び、それに目を向けるのか。

日常で培った知識や印象は、時に偏見や差別に繋がり、触れてもないモノに対する印象や事実すら変えてしまう。それがむかつくのだ。そしてこわい。

しっかり知ればわかる事なんてたくさんある。在日コリアンの友人はヘイトスピーチに出かけて日章旗を掲げた若者と繋がり、飲みに行くことで仲良くなり、今では韓国で出逢った人と韓国に住むことになるほどの変化があったそうで、未だに交友関係にあるという。それこそ理想であり、有るべき人間関係ではないのか。

そんな大事ことに対して僕らは無意識のうちに、昨日にいくつか置いてきてしまっている。

いきつけの建仁寺坐禅教室

人から薦められるものの引き寄せ

新しい行き付けがやってきた。

そうやって人から薦められる物事は、少なくとも今の自分に多大に得るものが多い。じゃなければ目の前の空いてからそのキーワードは出てこない。今の自分から発する何かとリンクして、人は知らなかった必要なものに遭遇させてもらえる縁が繋がる。それを紡ぐのもまた人でしかない。

見ていても一瞬でわかる確実にそれらを掴むことが出来る人。聴いたらすぐメモったり、即買いしたり、スケジュール帳に書き込む人は、そうしない人らの何倍ものスピードと深さで、このセカイを堪能できる。逆に「へー」と聞き流してしまう人は、いくら何処に行っても、誰と会っても、そのまま流れていくような人生を歩み、また同じ所に戻ってくるならまだいいがいつの間にか後退している人もいる。それどころかその人自身がした行為である「流す」ということを他人からされてしまうことすら招き入れてしまう。

結局、良い悪いなんてない。それでも貴方ならどちらを選んでいるだろう?

モノも人も世界も自分も

何かの理由やきっかけのおかげで興味を持ったり毛嫌いしたり。

それでもその裏を取るほど、それらの物事との本質を知る人は少ない。そこまで深く考える癖がないから。逆を言えばそこまで深く考える必要がないから。

最近仲良くなったあの人は、なんか感じが良いから心地よい。これだけでも十分な理由と動機だが、それでももっと知れたらまた変わった来るかも知れない。

僕は基本、知らなければ良かったということは少ないと思う。どのみちその対象が「人」ならなおさらだ。それらを受け入れてはじめてその人と向き合え、より愛着がわくかも知れない。

セカイも一緒。対岸の火事なんかない。いつそれがこの身に起こってもおかしくないのが現実だ。先日の座禅会でも副住職が仰っていた。「人間想像したことしかおこらないし、想像があるから創造が出来るようになる」と。まさにこれこそが、セカイは結局一つに繋がっているということなんだろう。自分にとって都合のいい人も悪い人もソウルメイト。それらは今の自分に必要な事柄を教えてくれる。

そう、僕らはあらゆることを知らないだけなのだ。

その奧にある心の影や歴史や物事の裏を知りさえすれば、こちらもあちらも受け取り方がようやく変わる。

そうやってぶつかって向き合ってきた仲間はホンマに最高なのである。面倒くさくて当然。やり合った先にはそれ以上の空間が用意されているだろう。

行き付けのCAFE BAR BASEで大好きな京都の仲間たちと

はじめからずっと自由

♪「虹」

そしてそもそもはじめからセカイは僕らを祝福し、既に与えられている。

僕が尊敬するドリアンさんの名言だ。

それまでは人生の中で足りないモノは自分のせいだと思っていた。自分にはドラマや映画のような運がないだけだと現実を呪う。そうではない。全ては自分自身の目の前全てがセカイで、それが全てでしかない。だから知らないことをそのままにしておくと、偽物のセカイで覆われる。それでは何もジャッジできない。

今までもこれからも、セカイも人生も、自分の思ったようにしか現実にならない。

そしてその全てを選んできたのは自分自身以外の何も出もなく、思いのままの現実が目の前にあるから、全て自分のせいで自分のおかげ。

最近の生前記憶研究結果からは、己の病気も人生も母親さえも自分で選んで生まれてきたということが実証されているくらいだ。

もともと自分を不自由にしているのもまた自分。

だからどの人から得る情報が、自分にとって大切なのかを選ぶ必要があるのだ。

ゆうじくん作滅茶うまーい海賊旗ガトーショコラ

結局知らないだけな僕らの世界

それらを人付き合いや坐禅、日々の苛立ちや幸福から見つけ、眺めるセカイ。

流すも、捨てるも、深く切り込むも自分の洗濯。はじめから自由な僕たちは、その自由すら嫌う人も多いこの日本社会。歴史上あらゆる国の人々が夢見た言論や行動の自由化。

便利か安全かどうかは別として、全く平和と呼べない社会があるのを知っているから、ぼくらは出会いを繰り返す仕掛けを繰り返し、出逢ったからには互いに後悔のない絡みをする。そこでまた次の約束ができ、広がって深まり、関係性が大きくなっては時代の共犯者になっていく。

むかつくあいつは何をそんなにふて腐れているのか。何がそこまで追い詰め、こちらに何の文句や不満があるのか。そしてなかなか伝えらないこちらの落ち度は何なのか。そういうこと一つひとつに互いに気付き、成長し合う気持ちがないと、人もセカイも政治もコミュニケーションなんてとれやしない。本当はもっと簡単なことのはずなのに。やはり人生はなんかしの課題や試練まで与えて「変わる」きっかけをくれる。いつまでも気付かんバカもいるが、またそれも「許す」器ももらえたりもする。

日々伝えきれないことばかりだからブログもまた問題なもんである。けどこれだけは残しておきたい。

絶望するも何に当たるも自由だけど、せいぜい思いのまま動いて「知って」から物言ってくれ。

俺らが生きてるこの時代もまた、まだまだ捨てたもんやないんやから。

鴨川の河原から寝そべって眺める空と人と宇宙。貴方にはこれが何処まで見えるだろう。

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