改める人と変われない人の違い

寝坊して駆け付けた中庭で見つけた日だまりの花

人との付き合いを重ねていくと、自分との共通点やいくつかの変化に気付く。

なぜ、このセカイには成長出来る人と出来ない人がいるのか。これは語弊かな。自分の行きたい方向へ進める人と、その言動により後退する人。

皮肉な話だが、人は誰に何を言われようが自分で気付かなければわざわざしんどい思いをすることはないのに、それをあえて選び、誰得状態で周りをも巻き込み、苦しい思いをする人がいる。

すべては愛だというのにこれらはなかなか伝わらない。

仲良く「眺めること」をする坐禅仲間

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口だけの人はバレるし萎える

もし「信頼」を築いていくものがあるとしたらやはり結果よりも「どういう向き合い方で生きてるか」という姿勢だと想う。

それだけ勉強してきたり経験がある年上の人でも、自分のことを棚に上げて自分は出来てないのに後輩に偉そうに語っても何の説得力もない。

個々でも日頃の行いが凄くよく出る。その人の言動は良くも悪くも周りとの鏡の法則。自分の中で出来てないところがあるから、無意識の中の防衛本能で苦手な人の愚痴をこぼす。自分がその人とほぼ同じ琴をやっていることには気付かずに自分を正当化しようと必死なのだ。だから周りが見えない。特に人の争いごとはりょうほうのはなしをどっちもどっちだったりすることが多い。

問題は周りの人にそれを指摘されたときに、素直に受け止め気付いて己の言動を改められるかどうかだ。

僕自身、優しい人に出会い、痛いところを突かれて自分の小ささに気付き、自らを改められた経験は今でも続いている。特に合わない人に対してのこと。これに対して人は境界線を引きたくなるが、これに目をつむって流していてはいずれ必ずまた大きくなって自分の所に返ってきてはその器の小ささに気付かされることがある。

出来ている人は周りに陰口など叩かれず、自ずと多くを語らずとも人が集まり、信頼されるもの。図星を疲れるから激情し、全てを投げ出そうとする人にはここが足りない。出来る出来ないではないのだ。客観的に自分を見る余裕がないと、狭い世界に逆戻りすることになる。

己のプライドなんかをかける前に周りの人に感謝を忘れ、思い通りにいくまで駄々をこねるのは愛でもないんでもない。

いつだって目の前のセカイを変えるのは、自分自身の物の見方。自分や他者を諦めずに向き合う姿勢が大事なのではないだろうか。

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綺麗事を実行している人はカッコイイ

そんなときだからこそ有言実行している人の生き様に垣間見えるときには痛く感銘と感動を覚える。だから一つの場所に留まらず、色んな人の人生に出逢うために足を運ぶことは学びに繋がる。

頭ではわかっていても、実践できてなければ何の説得力もない。

そもそも名言では響かせることは出来ても、人は動かない。そしてそれを誰が何を発信するかによって、それらに対する効果の浸透度が変化していく。

ちょっと前まで手首を切っていた人が、難病におかされていた人が、周りから煙たがれていた人が、今全く想像できないくらいのまぶしい顔をしているかどうかで人々の見る目が変わり、それまで他人事に想って変われずにいた人の胸に響かすきっかけとなる。

愛がある人に限って、どん底の経験を乗り越えてきた過去があり、しかもそれを軽く言わずに笑顔の裏にしまっている。だから同じ言葉でも伝わる速度も深さも違えば振動だって違う。決して人や物事の悪口を言わず、目の前の人の辛さを優しく抱き締めて、楽に行こうぜと同じ方角を見て肩を抱く。

そういう人の言葉は生き方を証明しているので、綺麗事だろうが何だろうが心から憧れを抱ける。そしてその存在のありがたみを再確認させてもらえるから、自分自身も動きたくなる。

人生気付いたもん勝ち。そもそも勝ち負けではないし、そもそも今あるその姿や状況になりたくて、今まで数多くの選択肢を選んできた結果が今の自分。

先日の座禅会で学んだこと。「坐禅とは何かと言われたら豊かさだと想います。幸せとはなるものではなく、気付くこと」。

人繋ぎの大秘砲

けど簡単に言うと「そこに愛があんのかい?(ひと屋根あんちゃん風)」ってことなのだ。

いつもそこに行き着く。このワンワールドのヒトツナギのセカイでは最も響くもの。

周りも自分も世界のことも、「こうしなきゃ」のmustより、「こうしたい」のwant。それを動かしてくれるのが周りの愛からの気付きで、これをまた改めさせようとする自身の愛による反響作用。

これが出来ている人の周りには自然と求めている人たちが寄ってくる。さもなくば人は繋がったり離れたりを繰り返してなかなか定着メンバーには見舞われない。そういう人に限って誰かの陰口を叩く。そしてそのまた裏で陰口をたたかれる鏡の法則。

様々な人に出会えると言うことは、ここら辺の違いがくっきり見えてくるから面白い。じゃあなぜ変われない人はそのままなのか。それは多分まだその人がそういった卑屈な環境から離れられない壁をクリアしていないからなんじゃないかな。だから気付かない。気付いたとしてもまた流すから周りからも流される。

自分にとっての損得を考えるよりも、徳を積む器のでかさを磨いた方がいい。

その繋がりこそ、自分の求めていた宝物なのだから。

京都の兄弟たちと念願のハロウィンホグワーツへ

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