残酷を期待をする上から目線の他人ヅラってどうなん?

面白い映画を見た。それに絶賛のレビューして、他のレビューも見てみた。

参考までに僕の映画を評価を載せているフィルマークスリンク→https://filmarks.com/users/keniijima

そこに書かれていたコメントは「期待はずれ」「○○の演技が低くて萎えた」「時間の無駄」などなど。

映画だから、どんなものを期待してもいいと思う。ただ、一線置いて、ただただ残酷なものを望むのはどうかと思った。そんなこというならあんたならどう創るんだか想像したこと有りますか?

色んな視点と感情があるからわからないでもない。けどそれは命に関わるセンシティブなテーマである自殺を取り上げていただけに、他人事になっているそのコメント欄に強く違和感を感じた。

そもそも僕は周りの人と大きくずれている。「小さな頃から」そうだった。

高槻のお気に入りカフェ

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映画の酷評

大人になるまで心を交わせるような、強く共感出来るものがあるとすれば、それはメジャーのようにそこまでヒットすることのないマイナーな作品くらいだったろうか。とにかくそんな他人との共有なんて出来る感覚を知らずに育ったから、はじめから期待してもいなかった。それでも世に出ている作品や人の中には、少なからずともあの時の僕に共鳴させてくれる何かは確実にあった。ただそれだけで、僕はこの時代に存在しても良かったと実感を得たものだ。

世に出ている全ての作品はどう見ようが自由だ。見たからといってそれ以上には何も求められていない。当然だろう。一種のエンターテイメントとして作品は存在する。それでも人によっては何かのきっかけになったり、生きる支えにもなる作品がある。僕自身そうやってあらゆる作品や創作者によって救われてきた。その違いは何なのか。それは受け手側の見る姿勢だと思う。

これがいかに現実の世界でおきていることなのか、実現する可能性があるという当事者性。

「この映画が一番面白い」とか「ラーメンランキング一位」などは存在しない。人やそのタイミングによって求めてるものが違うからだ。

自分で何かを思いっきり創ったことない人に限って、いつでも気分の悪い言葉を並べてくる。

以前訪れたパレスチナ難民キャンプやリオのファベーラに行ったときもそんなん言ってきた若い参加者がいたことを思い出す。

樟葉のフリースペースで行った定例の海賊から見る国際情勢会

海外のこわいものみたさ的差別

10年前、僕はヨルダンのアンマンにほど近いナバダ難民キャンプにいた。砂漠特有の乾いた風が数十人の日本から来た人々を通り抜けていく中、僕らはパレスチナ難民の方々のおうちにホームステイさせてもらった。自分のうちにも来て欲しいと群がるご主人たちの怒鳴り声の中、割り振らせていただいた僕らは各家庭に向かい、最高の晩餐を頂いた。その後船に戻ってからのシェア会にて何人かの参加者が感じていたのは「思ったより豪華なうちに住んでいた」「食べきれないほどのご馳走が出てくるとは思わなかった」ということだった。さらにはそれに対して期待はずれ感にも似た不満の声が漏れていることをツアーコーディネーターに伝えたところ、その次に行われた報告会ミーティングに同席してもらった。聴けば、実は僕らが割り振られたおうちは比較的生活に余裕がある方優先で組まれていたらしい。そして食べきれないほど出てきたご馳走も、客人を持てなすためにご近所からかき集めてきたものだったという事実を知る。不満を漏らしていた人たちは絶句した。

これと似たようなことだろう。僕らはいつの間にか創ってしまった先入観の中で生きている。どうやったってその偏見からは逃れられないから、それ以上追求したい場合はその場に行って実際体験してみないとわからないのだ。そしてそれらは世界の断片として一つ自分を大きくしてくれる。

素敵な大学生と頑張る大人が向き合ったカラスマ大学放課後食堂

先日カラスマ大学の放課後食堂にて、最近の意識の高い大学生たちと今の社会についてディスカッションをした。非常に有意義で、いつもは22時頃流れ解散になる月一のオフ会も、気付けば終電近くまでテーブルを囲んでいた。

論点になったのは「どうやったら日本の民意を上げられるのか」「もう日本は駄目だから海外でクラスならどこがいいか」「政府やスポンサーのプロパガンダの中で、ジャーナリズムは可能か」「市民に出来ることがあるとしたらどんなことが出来るのか」など多岐に渡った。別にそういう企画にでもないのに、それぞれの生きる視点からの色んな原体験の話が出てきた。何にでも疑問を持って動ける人は素敵だ。そこに答えなんて求めてないから、まず自分の知りたいことややりたいことにしっかり目を向けられる。正解・不正解なんてどうだっていい。

ただこのまま汚い大人たちに踊らされたり操られたりするのが嫌なだけ。

なんかそんな若者たちがかわいく見え、自分はえらく年取ったなと再確認。それでいてその子たちの気持ちがわかるから、まだまだ大人になってないなとも再々確認。僕は自分のことを棚に上げたり横に置いたりして、アクセサリー感覚で人生のきついところを軽く話す人が苦手。だからこそしっかりと向き合いたいし、考えたいし、伝えたい。そのためにはそれを話せる仲間は必要不可欠で、新たな知恵や光を交換し合えるだけでなく、共に実現させることも出来る。

むしろこっちが意識したこと亡いところまで指摘されると、よりこの世界の深さも自分の浅はかさも発見出来るから刺激になる。これだから、ネットではなく、大好きな人たちの近くに求めているものは沢山落ちているもんだ。

京都月一勉強会「GREAT LUCK UNIVERSITY」一周年はこの一年のゲストのかた方を迎えて

スクリーンとの距離の縮め方

映画や本などの作品じゃないと見れない人生がある。

ただ、あくまでいつだって前提にあるのはこの現実社会との対比だ。

なかなか現実では出来ない、もしくはお目にかかれないものを描くからそれからの作品には話題性が出る。けれどもどんな感情になったって大事なのは目の前の今。

それを置いての現実逃避もたまにはしたくなるけど、全てをセパレートに分けてしまう視点は勿体ないなと思っている。それどころかそこに当事者性を持たず何のためにそれを見るのだと。

災害パニックムービーや人生のどん底逆転劇など、見習えるべく点は多岐に渡るヒントや知恵も得ることが出来る。

それくらい目の前の世界は可能性とチャンスに溢れている。

その差はやるかやらないかで、出来るかも知れないと思うか思わないかでしかないのだ。僕自身その経験があったからそこを強く言いたいのはある。出来ないと思っていたことが、いつの間にかそれを通り越して全て叶ってる状況。だから愛おしいくらいにこのセカイが作り物だけではなく、しっかり繋がっててくれたことに感謝をする。

そもそも疑似体験や、仮想空間なんて必要がないのかも知れない。現実逃避も悪くない。逃げたくなるときだって消えたくなるときだってある。けどそんなときこそ変われるチャンスかも知れないし、「これは映画の中の話だから」と勝手に線引きして諦めてしまっていた証拠なのかも知れない。やる前から、やりもしないで、わかったような口をきいて。そうではなく、全ては起こりえると言うことで見る。自分がここにいたらなんて言うか、どんなキャラとして東上するか、もしくはそこの誰でもない視点としてそういうときにはどうするんだろうとか。

そういう見方をするだけでも、今日の帰り道は違う景色が見えるかも知れない。目の前の世界を創っているものは、紛れもなく自分自身しかいないのだから。

ようやく鴨川の河川敷に戻ってきた若者たち@四条大橋

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