恐いのは「知らない」から

コロナで動けず、のんびり鴨川沿いの花見街道(北大路から京都駅まで歩いて帰る暇っぷり)

もはや世界中が思考停止してスタンピードしている混沌とした状況。ウイルスという目に見えない恐怖は夜明けを知らず、マジョリティの人々に不安と絶望を与える。

もはやリテラシーなんかも働かないセカイを巻き込んだ暴走モード。何が本当かなんて誰にも断言できない。

けどちょっと立ち止まって考えてみよう。なんかおかしくないか?

お陰で日常の中にありふれていた大事なモノを再確認させてもらっている時期。イベントもカラオケも人と会うことやハグだって、自分にとって大事なモノが多くお預けになった今、ぼくらは何かを気付かせてもらっている機会なのかも知れない。

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知らないことが、曖昧な関係を削っていく

先日妹分がドタキャンされた友人に対してSNSでこう愚痴っていた。

「明日死ぬかも知れないのに、あたしとの時間をなんだと想ってんだ?」

至極真っ当な感情に共感する。それでも情報や判断が限られた人たちはその選択肢すら持つことが出来ない。でなかったら非常識扱いされる。だって恐いから。そして何よりそもそも知らないからだ。知らないものは恐い。これはいつだって同じで、いつもいつも現状だけはおさえたつもりでそもそもを教えてもらってないし、そこについて考えようともしない。

だからなあなあになる。目の前のことも、近くの人間関係も。それでも日頃から誰かを大事に出来ている人はそんなところにははまらない。なにか仕事も、場所も、人間関係も、色んなものがふるいにかけられているような、少なくともいい感じはしない現状。

そうやって社会全体がまたふさぎ込んでいくイメージ。本当はただそれだけじゃないのに、見えなくなったから余計見えにくくなる真相や本心。

誰だって病気にはなりたくない。けど、じゃあ貴方が食べてるものから発癌性物質が出てるけど、癌は言いわけ?日々自ら死ぬ人の数って毎日流れてくる?インフルエンザは?

そんな感じだ。数字からは人や心や人生は見えてこない。何より、こんなに知り合いが多いのに1人も感染したという人の情報を知らない。そら下手に出せないだろうけど、それを言ったら自殺も失業も一緒なのかも知れない。もっと言えばフラれたり離婚したりもそうなのかもしれない。

だとしたら僕らは何に恐れ、何を知らないのか。ちょっと一緒に考えてみたい。

400年の老舗、奧嵯峨「平野屋」さんで昔から変わらないお食事を

「今までのまま」では通用しない現実

鴨川、出町柳付近で珍しい会合

こんなことでもなかったら、こんな風に考えることはなかった。人生はその繰り返しなのかも知れない。

行き付けの店もまだ開いているところもあれば、泣く泣く締めたところもある。マスク二枚以外はなかなか申請が通りにくいという政府の保障。自粛要請や緊急事態宣言はわかる。じゃあその間働けなくなった人たちはどうなるのか。今まで元気だった人たちが絶望し、元気じゃなかった人はもっと元気じゃなくなる。これが他人事にしていた日常の末路だ。

遅かれ早かれ論もわかる。いずれ人口減少で今までの幅では仕事が立ちゆかなくなったとき、僕らはどんな変化を遂げなければ時代に対応できないのか。だとしたら想像力を働かせる前に、そもそも周りとの関わり方を考えるべきだろう。

自分たちだけのことを考える時代はもう終わったのかも知れない。非常に強引なかたちで、無理矢理目覚めさせる。確かに、人間そういう状況にならなかったら考えずに後回しにすることなんてたくさんある。だとしたら凄い。

たとえば、やりたかったけど時間やお金もなくて出来なかったこと。けどこれらは日々の忙しさという言い訳によって流されてきた産物だ。そもそもそこに愛があるかないかが問われていたのにもかかわらず、いつもの忙しさを選ばざるを得なかった反省。想像できなかった汚点である。

じゃあこれからはどうするのか。オンライン説明会やオンライン飲み会に目覚め、会議もイベントも全ておうちでやれとでも言うのか。収束を末ではなく、コロナに感染しているていで共存していく。それもわかる。だったら普段の食生活や睡眠などの不摂生から直さないと、免疫なんて上がらない。商売だってそう。価格競争には限界がある。

じゃあなんなのか。色んなところからも言われているが、やっぱり僕は無形資産でもある「人との繋がり」や「ホンマにやりたいこと」だと想う。

梅小路公園でたこ焼きをつつく仲間たち

鍵は情報源と生き方のパラダイムシフト

そんな関係や環境から、また新たな情報や希望が見える。

そういう人たちと繋がっていられるかはだからこそ大事に想えるのだ。それこそ「あの出会いがなかったらと思うと怖い」と思えるほどの愛がある関係。正解を求めてしまえばまた思考停止が待っている。

全世界統一の答えのない世の中で、人の数だけの真実があって、僕らは何を信じるのかと言えば、目の前で苦しんだり、何とかしたいと思っている人たちの声を聴きたい。

そのためには家でこもっているだけでは出来ない気がする。

兎に角知りたい。みんなは何に恐れているのか。何がしたくて出来ないのか。そしてそれはコロナのせいにした「いいわけ」ではないのか。じゃあ何が問題なのか。政府の対応なのか、誤った情報が多すぎるのか、何にうんざりしているのか。もうわからない。だから知りたい。一緒に考えたい。ただそれだけ。それだけのことなのに、セカイでは仕事も思考も夢だって停止しているかのように魅せられる。

それでもこんな中だからこそ、儲かりそうなことをやるのではなく、単純に伸びているところもあるはずなのだ。そして今までのことをどうにかする対処方法も。

だって本来、僕らは知足のもと、誰もが得ているはずなのに、ただただ「幸せ」を見失ってるだけなんだから。

だからこそ今求められる考え方や価値観の変換であるパラダイムシフトである。

世の中の流れを見極めるよりも、本来「自分ならどうしたかったのか」が、これまでの社会に対する不満も含めて、自分ならどうするのかをしっかり考えるタイミングなんだろう。

遂に食せた一乗寺「極鶏」の魚だくTKG(おかわり自由)セット。強烈旨い。

今だからこそやりたいことは何ですか?

西院カフェバーの行き付けメンバーで組んだBiSHのコピバン「ZaSH」。

1月に講演させてもらった高校からたくさんのアンケートが届いた。あの時直接声を掛けてくれた子たちは限られていたけど、それ以外の感想も読んでみてびっくり。あのときは寝てる子も5分の1くらい見かけていて「空学校の授業でこんなセカイや社会問題の話ししてもな」とおもって手応えは全くなかったが、まさかこんな風に感じ取って持ち帰った子たちがここまでいたんだと、息をのんでその丁寧に絞り出したであろう文章を読ませてもらった。決してなめていた訳じゃないけど、どれもこれももう本当にすげえなって想った。なんか衝撃というか愛をもらった。その自覚はないかもだけど、僕の中ではそれ以外の言葉が見つからない。

それでもやはり、彼ら彼女らは大人の背中をしっかり見てる。だから人によって尊敬できる大人がいたりいなかったり、これからの未来が不安だったり、楽しみだったりで別れるのである。

まさに今、若者だけでなく、様々な人たちが問われている、この時代にとって大切なもの。

外に出られなくて何も出来ないまま平気な人なんてそうそういない。それこそ日本は貯金の文化があるけど、海外の国なんてまさにその日暮らしも多い。

だからこそこれからどうやって「共に」生きていくかをしっかり考える時間をもらえたのかも知れない。

僕のやりたいことは至ってシンプルだから、今までよりももっと、音楽・作品・フェス・現場・オンライン・陸・海・空を問わず、人とワクワクするセカイの今を繋げ深めていきたい。

先斗町公園のタイヨウとサクラ

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