優しい言葉と貴方の愛で

京都線新快速。結構早い時間からゴーストトレイン

人と会えないことの不安でなんかつまんない空を眺めても、いつだってタイヨウは昇る。そしていつの間にか浮かばなくなってしまった顔もあれば、大事な人たちはさも当たり前のように何とか生きている。SNSに頼らない逞しい仲間たちの色々ありながらも日々相変わらず生きているであろうそういった姿は強く励みとして胸に刻まれる。

こういうことがあったからテクノロジーの利用からの選択肢を増やせたこと。会いたい人と話したい人との時間が生まれる。

今まで何でやろうと思えなかったのかってくらいに、それはまた必然と。

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心から嬉しくなる優しい言葉

相変わらずの大切な仲間や家族的人らとの久々に顔を見合わせての再開は、スマホ越しでもココロ躍るものがある。それと同時に地域に根付いて視野が狭くなっていた自分にも気付いてしまう。

そりゃ顔をつきあわせなくなればその人の笑顔も思い出だって色あせていくものかもしれないけど、「相変わらず」ほど嬉しくも安心するものはない。本当は何にも執着したくないけど、心を通わせた何かがあるなら、拠り所はいくらでもあるはず。

本や映画などの媒体にしかココロを寄せなくなった今だからこそ、大好きな人たちの優しい言葉が体中に響く。

そんな相変わらずな東京の仲間たちの会話は「優しい言葉」で溢れていた。

けど結局、こんなことが無くたって、いつでも、どこでも、本来僕たちはこの空と海で繋がっていたのだから。

元々全てはひとつで自分事

もともと自分と他人との間に境界線なんて無いのに、別物として無意識にカテゴライズしてしまう哀しき癖は、何十年にもわたって自分を支配してきた。

人は鏡であり、自分の言動は良くも悪くも自分に帰結する。

だから争いごとや悩み事は終わらない。伝えたいことが伝わらないのは相手と自分とを違うものとして分けたり、知らないことなども前提に置けないから、そこには理解が生まれない。

自分とは関係ないことと関係を持てることなんか無いのに、人はすんなりと物事を流していく。自分のことなのに。だから戦争やいじめがなくならないという理屈が出きて、そもそもその意味すらしっかり考えようとしない人まで増えてきてるのは心無いインターネットの普及としか言いようが無いのか。

こんなにも素敵な人やモノで溢れる世界すら、ある人からしてみれば無いも同然に遮られる。これがクソッタレな世界の同調圧力。我先にと戦線を離脱して損得でしか物事を判断できない愚かな考えが常識化する。世界は思っているより絶望的ではないのに、そういった二次災害的な人の欲や固定概念によって結果「実態」は捻じ曲げられる。物事の本質とでも言うべきか。

本来愛をもって接しなければ思いは伝わらない。思いをもって接したとしてもなかなか伝わらないのにもかかわらず。だったらそれで響かせるように、こちらは筋を通すまでだ。

世の流れに迎合して思考停止する前に、目の前にいる人や自分との関わり方を見直すいい機会なのかもしれない。今まで散々のヒントや気付きを見逃してきたツケが今廻り巡ってきたのだから。

万博公園のタイヨウの塔、久々見たいなぁ。

だから人にやさしく=自分にやさしく

だからほんまにこれに尽きる。

「こんなご時勢だから」「こんなときこそ」なんてどうだっていい。

結局どんな状態になろうと、今まで必然と出くわしてきた中で、大事なことを見つけては気付かず流してきたのは自分でしかない。そしていつもと同じ「変わらないこと」を選んできた。

大切なものは失わないと気付かない。けど、失ってからでは遅いし嫌だから、日常の小さなことでも変えてみる。コンビニのものは食べないとか、太陽の光で起きたときは二度寝しないでもなんでもいい。

前々からこの星で足りないのは愛ということは決まっていた。だからあらゆる作品や人生の中でも「これさえあれば」そもそものくだらん争いごとなんておきないのだ。

周りの大事な人も大事だけど、まずは自分のカラダとココロから。

やりたくないことを文句言いながらやるくらいなら、んなもんは全部捨ててココロの赴くまま言い訳せずにやったらいい。したら心が喜ぶ。心が喜べばカラダも満たされ、夜も安心して眠れるようになる。何度も周りに言われるよう後ろ指刺されるような行いが多ければそれはなかなか変えられない。

結局、回りを変えられるものがあるとしたら、自分から変わらないと見えてこないのは、いつの時代も共通の鉄則ルールなんだから。

大事な人よ、今日も自分に優しくしてほしい。

先日緑の点灯で大阪を賑わした太陽の塔梺にて。

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