そだ、京都いこっ

京都に来てから二年と半分。関東で生まれ育ったものとして、ガキの頃から好きだったこのCMが改めて見たくなって本を買った。俺の中では「海ごはん山ごはん」と同じくらい好きだった、どこか切なくしみじみする思いで見返した。そして、いろんな視点で京都をめぐるのではなく、人生をめぐりたくなって、思い立ってはこっちで出来た仲間(こっちの人たちは当然このCM見たことない)や一人で出向いたりしてみる。

これが今のおれには、毎週できる。

スポンサーサイト

大好きな場所をつくること

毘沙門堂内のいかした廊下。

「世界遺産も、絶景や観光にも興味がない」。そんなことを決め台詞にしていた自分が恥ずかしくなるほど、今そういうものを求めている自分がいる。

想えば時たま海外出張するとき、常に海が近くにあったことと同じく、時間をおいてしまえば忘れてしまう感覚もある。そんな時に思い出すのはこれまで覆された経験だ。例えば最初は興味のなかった綺麗な景色も、地平線まで何もないケニアの赤土のサバンナ、タヒチのモーレア島では絵に描いたようなサンゴ礁、カナリア諸島の山岳地帯を登ってみた谷底に聳えるクレーター、壮大な氷山埋めく南極のパラダイスベイ、チリはバルパライソの煌びやかな丘の夜景、アイスランド沖で眺めたオーロラベルト。そんな世界中から逆に今度は観光客として集まってくる京都。息をのむような感覚は、共に眺めた人たちで決まる新しい発見として胸を躍らせ津。一緒に見て感動してる人を見てまた感動したり。そしてそれらは自分の成長や視野によって常に改め塗り替えられていく。

そもそも「観光」とは、日常ではなかなか体験することのできない「光を観に行く」ということ。そしてこれは音を観ると書く「観音さま」の字。それこそそこに因果がないわけがない。

そんな場所が国内外に沢山あるけど、ここ京都はまた格別。10代の頃、初めての一人旅で仏像マニアになるきっかけとなった太秦広隆寺。思えばあの時から京都に住んでみたいという気持ちが芽生え始めた。そしてまた新たに知った日本神話の歴史などに関連するちょっとマニアックな穴場まで、出会う人によって広がっていく新境地。

ソーシャルディスタンスは苦手だし、不要不急の用事なんてもともとないけど、だったらと一人で電車かバスに飛び乗り、どこも大抵30分以内で出向いてみる。

そして日々の謙遜に影響された己の波動を変えるために、あらゆる神々に会うため、静かに目を閉じて手を合わせに行く。

手を合わせるということ

実相院中庭。

最近見たどこかに書いてあった言葉。

「手を合わせるということは、仏様と一体になるという意味がある」。

だから神社には大抵、八咫鏡が置かれている。そこに映る自分こそが神。すなわちお願い事を叶えるのも自分以外はない。むしろ困った時の神頼みは、自分への宣言ともとれるものなのかもしれない。

90度のお辞儀を意識して2回、姿勢を正し、目を閉じて手を合わせて深呼吸。

すーっと木々やわらが風で揺れている中、あの時のことを思い出す。

7年前の今頃、6度目の地球一周航海を終えてからのアジアクルーズに連続乗船し、ほぼ抜け殻状態で帰ってきた僕は初めて一か月の休職を取った。当日のことはよく覚えてないが、やりがいのある仕事に対して、同僚間でのコミュニケーションがうまくいかずに辞めようとも考えていたが、兎に角疲れたんだろう。そんな俺に手を差し伸べてくれたのはこれまで面倒を見ていたかわいい泣き虫の妹分だった。「ようやく恩返しするときが来たね」と連れていってもらえたのは、知り合いが京都でやってるというゲストハウス。久しぶりに自分のことを誰も知らない場所に数日お世話になった。ネオナチやよくわからない政党で活躍する過激な人らの本で埋め尽くされたリビングで、「この人は普段何をしてるんだろう」と思わずにはいられない色んな人々が入れ代わり立ち代わり集っていた。これからの人生をどうしようか迷っていたこともあり、今考えたら贅沢な時間の使い方をしたんだと想う。ちょうど紅葉シーズンだったのもあり、自分らより若いオーナーのおすすめで行ってみたのが京都市内の北側、岩倉にある実相院門跡だった。妹分と二人でそれはそれは見事な庭園を静かにたたずんだ記憶があり、あの時の自分に想いを馳せ、久々にあそこに行ってみることにした。

2013年秋。休職中の傷心旅行にて訪れた実相院。2020年秋。久々の地に一人で紅葉フライング再訪。※革ジャンは変わらず。。。

手を合わせてるときに願う世界

船の神様に祈る切実な願い@平等院鳳凰堂裏手側

7年ぶりに行った実相院は、自分の成長を気付かせてくれるものがあった。

あの時は床に映る「ユカモミジ」や「不動明王」なんて気付きもしなかった。唯一覚えているのは真紅の綺麗な紅葉をその見事な石庭で明日を眺めたことくらいだろうか。だが今はその一つ一つの価値がわかる。中庭のししおどしも、心の庭の枯山水も、壮観なまでにそこで京都は待っていた。あの時と異なる点は、まだ紅葉の時期まで2.3週間ほどフライングしたことくらい。

それでも今、これからの生き方についての悩みもまた、あの時と似た心境ではあったので非常に多くの自分の声を聴けた。あの時のように縁側でボーっとしてみるが、今回は一人でたっぷり坐禅を組む。赴くまま。誰の目も気にせずひっそりと。

不思議と呼吸と感覚を整えると見えてくるものがあるのは、どんな状況でも幸せの証。ただほとんどの人がそれに気づけない環境が多いだけなんだろう。他人と比較することの愚かさを憂い、そもそもその人らとの境界線も省いて地球と一体となる。そんなイメージを持てたら好き嫌い関係なく、日常で付き合っていけるはず。

そんなことを感じさせてもらい、隣の神社にも上って、最近お薦めされた日向大神宮までフリー切符で足を延ばした。日没近くの誰もいない広い境内は少し勇気がいり、会談で汗だくの肌をより一層冷めさせる。伊勢神宮と繋がりを持つ個々のご祭神は、日本神話で聴いたことのある神様だらけだった。タイヨウの神様に手を合わせ、そのまままた少し上がって明らかに深い闇に繋がる天岩戸を潜り抜けた。一度は圧倒されて引き返したほどの迫力(笑)。僕にもまだこんな感情が残っていたことに一人で笑う。

いつも手を合わせて念じることは「みんなが幸せにありますように」と、このクソみたいに素敵なセカイで切に願って一礼する。

再び日常へ戻るための休みの使い方

建仁寺、両足院での月1会員坐禅会。

最近はよくこういう休日の使い方をするが、京都ならではでかなり落ち着く。

どこで誰と会って何をしようが、結局今の自分自身が試される。等身大でまったく問題ないと思ってきたが、最近はどうせだったらしっかり磨いてから登場したいと思ったのかな。

そんなこんなで今日もこの世界を楽しむ。いくら学んでも追いつかない自然の摂理を感じながら、今という時間を見つめてみる。すると誰かに必然と出会い、同じ空間で語り、そうすると不思議にまた新たな人や物事に繋がっていく。そんなサイクルが大好きになる。

未だ悩める若者も途方に暮れた大人たちに毎日かかわらせてもらっているけど、未だ誰かを助けたいなんておこがましいことは思ったことはなく、ただただそういう人たちと広く深い世界を観に行きたい。灯台下暗し含め、そうやって毎日を形成していきたい。

休みの日の使い方こそ、明日を生きる充電に繋がる。すべてリセットしたかったら、坐禅も、神社仏閣もまた、何時でもどこでもできたりするんだから。その心と、一緒にいたい人が、生きてさえいれば。

ようやく再開したHARD ROCK CAFE KYOTO!

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする