赦すということ。

メッセージ

見事な紅葉絨毯。京都世界遺産をめぐるお参り。

最近言葉に出来なかった違和感に対して、自分なりに気付かせてもらったたからシェアしたい。

世の中本当にいろんな人たちがいる。もちろん大勢の人が声を上げることが間違っていることもあるし、そもそも正解不正解でもない。そもそもなぜそれで怒るのか。いろんな理由があるだろうが、例えばネットでの「炎上」そのものの意味がよくわからない。

炎上したというNIKEのCM。

人種差別を真っ向から描いたナイキのCMは、なぜ作られたか|遠藤 結万|note
ナイキが制作し公開したCM は、予想されたとおりに一定の反発と、称賛と、様々な議論を読んでいます。 私はもちろんこのCMについて肯定的な立場に立つものですが、中には不買運動などを主張したり、Twitterで怒りの感情を吐露するユーザーも居るようです。 このような怒りが適切なものであるかどうかは別に...

何度見ても、何がいけないかわからない。

NIKEのCM

これ自体が炎上商法的なものらしいが、俺自身、ちょっと感動すらしてしまったがゆえにまだ見ぬ視点が足りないのかと自問自答してみる。

もう一回見てみる。けどやっぱりいい。孤独の中でも自分の信じたことを曲げず、向かっていける若者たちの気づきと大事なこと。時に国籍など関係なかったとしても人が集まる場所というのは残酷なもので、特に同調圧力の強い学校なんかはまさにその対象となるだろう。一人ひとりの思いやドラマがあって当然。そんな中でもめげずに自分の信じた道を行く。すると人はその環境や出生に関係なくいい面が出来るってもんで。

それを単に被害者ぶったり、もしくは加害者ぶって声を荒げる人自体、どうなんだろうかと疑問に思った。世の中本当にわからないものと首をかしげてしまうけど、誰だって周りの目を気にせず、誰にも迷惑をかけたくないと想うのに、いつの間にか仮想敵や周りのせいを作り出してしまう。

差別はいけない、のは知っている。そこで問われるのは実際自分が周りの人たちにどう接しているか。どこまで行ってもこれしかないんだろうな。その人の気持ちはその人にしかわからないのかもしれないけど、これが炎上する世の中には違和感しか感じない。

改装された清水の舞台から。大きい斜陽サンセット。

結局正義対正義?

大好きな教え「知足」のつくばい

それももしかしたらそれぞれの正義がぶつかって起きる摩擦で、だから差別も戦争もなくならない今につながる。心無いと思ってしまうような政府が存在するのも、そこでコントロールしようとあらゆる手段で興味を逸らさせ、動かされてしまっている周りもしかり。

本来こうでありたいと願う宗教的教えや自己啓発的なものでも、いつしか盲点になって無意識に人は何かに対抗する。こうなった時の人は人の話を受け入れられずムキになる。するとそこでの争いは話にならず、嫌悪感で相手をどうにかできないかと罵倒する。けどそこが落とし穴。

そこでも僕自身も気づいたことは、自分も社会や周りに対して許せない何かを持ってるということ。正義という言葉にあらがう自分がいるのもまたその一つかもしれないと思ったのだ。そもそもその延長上にいるのは自分自身。喜怒哀楽を司る感情が反応するのはそれまでの経緯からくる自分の合わせ鏡。僕自身、自分を許せてないのではないかと気付くのである。

何時だって物事は表裏一体で、どこで我が振り直すか、自分を試してくれているのだから。

赦すことなくして繰り返し続けるバッドスパイラル

毎日若者たちの相談を聴いていてよく見えるものは自分自身にも返ってくる。良くも悪くもだ。

もしかしたら自分はそうなのかもしれない。

けどそれって正解不正解ではなく、その気付きこそが大事で、じゃあ自分はどう変えるのかが問われている。誰かが傷つけられて、そのリベンジをしようと繰り返される攻防戦には終わりはない。それを受け入れて何一つ奪わないと決めたネルソンマンデラの呼びかけに答えた虐げられてきた黒人の皆さん、カンボジア内戦でも昨日まで殺しあっていた隣人たちとの共存を選び、世界では武装解除を望んでそれでも憎まないと決めたパレスチナ人もいる。それが出来ない人々が今でも戦争を繰り返し、経済では人やライバル社を蹴落としてまで自らの生存と繁栄を競ってきた。

このバッドスパイラルは、先のマンデラやガンジーのように、どこかでその連鎖を止める必要がある。これまで自分のことが嫌いで周りも許せなかったと悩む人々も同じこと。

そしてこう説く自分自身ですら。赦しなき道に未来はない。

先日呼吸法の先生が教えてくれた「反省は10秒まででいいよ。長くても30秒。それ以上は逆に叶ってしまうからやめとき」と。スピリチュアルでなくてもなんでも自分自身が思った通りに出来上がるのがこのセカイ。この法則はおそらく万国共通だろう。

京都の仏閣をめぐっていると時に面白い教えに出くわす。「仏さまに手を合わせるのは、目の前の神様と一体になるため」。神社のお賽銭入れの奥に「八咫鏡があるのは自分自身が神様ということ」で、そんな自分に手を合わせてお願い事を鏡によって己に照らし合わせてきている。

いつだって叶えられるのも救い出せるのも自分自身の気付きと言動でしかない。

龍安寺入り口付近の仏様。秋の京都満載なおひざ元。

結局一番許してあげてほしいのは自分

そんな感じで気付いてしまったのだ。もっとこのどうしようもない自分を許してあげなくてはと。

だってそうやって今まで一生懸命でも何んとなくても今を選んできたわけじゃない。

だからきれいな景色を見に、素敵な人に会いに行く。すると心は洗われ、素直な感動が全身を覆い尽くすのと同時に、それまで無意識に張っていたバリアも解ける。

なるほど、自分ではそんなつもりがなくても、俺がこの社会に対してドクロを掲げている以上、少なからずとも自分の合わせ鏡でいつの間にか赦せていない自分を責めていたのかもしれない。

これも毎日相談してくれる若者たちから学んだことなのかもしれない。「もっと自分を許してあげてよ」。目を閉じて空を仰ぎ、深呼吸してから自分にも問いかける。

うん、悪くない。こうやって気付き気付かされ、僕らは今ここにいる。

これからまた新しい毎日の再開だ。

金閣寺帰りについてた紅葉

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