たまに問われる事がある。
なぜブログを書くのか
この情報化社会の中で、普段自分が感じることを電波に置いても、見た人を余計混乱させて終わりか、伝えたから意味あんのかとか、そもそもこんなネット上の隅っこまで俺が届けたいと想う、誰がたどり着くのかという不安もある。
もとより文章が苦手で、伝え方だって別に特別じゃないし、もともと偉そうなこと言える人間ではないのにだ。
ジレンマ
このようにこれを更新するにあたっての葛藤は常に持ち合わせている。
「戸惑いこそ人生」だから当然。そうやって僕らは生きている。かといって専門家でもなければただの一般人。自分のように海に出ている者も世界を伝えている人も少なくない。それでもだからこそのリアルな想いもあれば、特別感がでないこともわかってるつもり。
それでも声を今、此処に刻む。なぜか?
逆に自分がこの世界に生きていて、なにも求めていたモノすら探せず、何かにすがり付きたい気持ちがあったとき、こういう出来事や人を見つけ出せないのは絶対に嫌だから。
それでも伝えたい人に伝えたいことが伝わらなければ独りよがりの自慰行為になるのか。
けどそれじゃ誰も声はあげなくなる?
言っても、それでも誰かが今日も呟く事は止まることはない。
それで救われる人がいるように、自分もそんな体験がここであるから、これを読んでる誰かの気持ちに、そして自分自身に問いかける。
RISK
とはいうものの言葉を放てばリスクがつきもの。
自由であればあるほど、どこでどう思われてるかわからないし、中には知らないうちに炎上する恐れもある。
かといって誰かの目を気にする文章じゃ人に響かせることなんてできない。
そもそもこんな一方的なコミュニケーションしかできないことも、有ること無いこと騒ぐだけ騒ぐ目の見えない空間も大嫌いだ。自分自身にもあてはまることだが、言葉は人を傷つける凶器にもなりえる。そんなつもりが無くても、その人の立場を想像できなかったために、誤解されてやらなきゃよかったということにもだ。
けど発言権は誰にでも有る。むしろそれで気付かされることもあるのなら、意識や知識や立場差で、言論の自由が崩壊するようなことになればそれこそ存在意義さえ見出せずに踏み出せなくなる。
せっかくあるのであれば、逆にピンチもチャンスに変え、嫌いを好きにも出来るはずなのだ。
伝えたいこと
で、そうまでして僕が「伝えたいこと」はそんな感じだ。僕は僕として、この時代に素直な声を刻む。自分が自分であることを誇ることじゃなくて、ただただ狭い世界で世の中を決めつける誰かの心を壊すために。何かに抑圧されての表ヅラのつまらん言葉なんて全然いらない。
だって世界はもっと近くて、広くて深い。
つい先日も「君は本当に世の中のことを知らんな」と師匠に一括され、まだまだ勉強が足りず、壁ばかりの毎日は昔と変わらない。けどのその壁の質は間違いなく今とは違う。
ただただ分厚く、電流まで流れているような冷たいコンクリート製の絶望的なモノではなく、薄い木の壁で出来た越えられそうでどうにかなるモノ、したいモノ。だからもっと学びたくてうずうずするのだ。結局のところ僕も、その感覚の共犯者を増やしたいだけなんだろう。
世界とは、どんな本を読んでも、人と出逢っても、そう簡単に見渡せるものではない。だからこそ、一生勉強として学べ、それはまた有限だが「可能性」や「選択肢」などは色んな所にあると確信してる。だってそんだけの人生経験している人たちで溢れているんだもの。それを語らず、知らずして、この世界を知ったような顔して歩く大人になんてなりたくない。
そんなもののほんの一部を、僕はここに置いていく。
そして何より、死んだツラして生きてる自分を含めた周りを、ぶっ生き返す!ため。
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